「伝説への道」 ~エピローグ~

新部署へ異動して、もうすぐ二ヶ月が経ちます。

いつの間にか、俺も無意識のうちに新部署へと溶け込んでいったような気がします。もっと心に大きな風穴がぽっかりと空くような虚しい思いをするかと思いましたが、そんな余裕はありません。異動して自分のマシンの設定が終わると、

「終わった?じゃ引継ぎやるから」

即業務開始です。そこは、新入社員とは訳が違います。他から異動してきた人間には経験がある。なので、皆それだけの期待を持って接してくるから、自分もそれに応えるような成果を出していかないといけません。

一ヶ月ぐらいすると、前の部署と新部署での、「やり方」の違い、「文化」の違い、同じ会社でありながら全くの違う組織のやり方に直面することになります。前の業務と照らし合わせながら、取り組むことで、それぞれの問題点を自分なりに考える機会ができました。

こっちはこっちで課題は山積みです。人がいないのは、こっちも同じ。開発効率を上げるためには、どうしたら良いか?そんなデカイ問題の対策を考えて実行するのが、今度の役目です。とてつもないスケールの大きい課題です。でも、くじけてはいけない。もう後に引くこともできない。自分は組織を変える事が好きです。今までの業務経験を生かして、そんなデカイ事ができれば、俺は大したものである。

そして週末、俺はいつも通りパチ屋にいた。新部署であろうとも業務に追われるのは変わりは無い。まだまだ周りは慣れない人ばかりである。だから、週末ぐらいは一人になりたくなる気持ちは昔と変わらない。それと俺は真面目に勉強を始めました。業務に関係するIT系資格を計画的に取得していく予定です。どういう資格かは、そのうち公開します。なりたい俺に向かって、俺は少しずつではあるが、確かに歩き出している。そんな俺に再度問いかけてみる。

「あなたは、今、幸せですか?」

幸せの基準は、地位でも名誉でも金でも無い。幸せを目指して努力する過程なのです。今、幸せと感じたらそれで終わってしまうだろう。幸せはたどり着くことができない究極のゴールなのです。だからそこを目指す過程で、抽象的に判断する。その判断は人それぞれです。自分の幸せは他人が決定する権利はありません。自分で責任を持って判断していくものなのです。

異動を決断した事で、「今、明らかに不幸せです」と決め付ける弱さから少しずつ脱却できているような気がする。そして、二ヶ月に渡り「ドキュメント俺」シリーズを執筆することで、自分の気持ちを整理することができ、明日からの人生につなげようという思いが沸いてきた。本当はもっと格好いい文章で書きたかったが、途中でアツくなってしまうのか、感情的に書き殴ったような内容になりがちな場面も多々あったと思います。読み苦しかった方には、この場でお詫び申し上げます。

この世で、価値の無い人生なんてありません。皆様も自分の人生を振り返り、どこかに残しておくことで、次の人生の糧にするのはいかがでしょうか?。本編が少しでも、皆さんの心のどこかに残していただければ幸いです。

今度こそ。

完!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「伝説への道」 最終回「伝説への道」

2006/07/28(金)。新職場へ最初に出社する日です。

「ああ、俺は今日から違う部署で仕事するのか。。。」

今更ながら、そんな実感が沸いてきました。朝のJR川崎駅、私はいつも通りのホームに降りてしまいました。

「あ、今日からこっちじゃなかったんだっけ」

電車に乗る前でよかったです。危うく昨日までの職場に出社するところでした。慌ててホームを変えて、何とか新職場へと到着しました。

Daitoubiru_after

今日から私は、ここへ通うことになります。ここに来たのは、面接に来た時以来2回目になります。でも、そこは同じ会社。それほど大きな緊張感も無く、自然と新部署へと足が向きました。新部署は10人ちょっとの小規模なところです。規模は今日まで知らなかったので、初めて見てびっくりしました。場所もフロアの端っこにあるので、フロアのど真ん中に自分のデスクがあった今までとは大きく環境が違っていました。面接では部長としか会っていないので、新部署のメンバーは当然知りません。上司も今日初めて会いました。自分のデスクは既に用意されていて、新品のPCの箱がドカンと置いてありました。

「今日からここが俺の場所か。。。」

ここで業務をするこれからの自分の姿を思い浮かべながら黙々とマシンのセッティングを行いました。周りも黙々と仕事をしています。ドタバタしていた今までと比較すると、少しばかり不気味ではありましたが、感傷に浸って立ち止まってはいけません。今日から入ってきた私は、1日でも早く皆に追いついて事業に貢献していかなければなりません。そのために、さっさと仕事できるような環境を作らないといけませんね。

環境設定を1から作るのは、とても今日だけで終わるはずも無く、途中で切り上げて私は昨日までの部署に戻ってきました。今日は記念すべき挨拶の日なのです。入社してから、何人もの方が去っていきました。そして、その数だけ挨拶を聞いてきました。今日は私が挨拶をする立場になったのです。いつかは、こういう日がやってくるだろうと思っていた日が今日だったのは、よく考えれば早かったのかも知れません。

私はまず協力会社のフロアを訪れました。既にスタンバイは整っていたようで、私は皆の前で講演形式で挨拶をすることになってしまいました。ちょっとばっかり心の準備ができていませんでしたが、この日のために私はカンペを作っていたので、ここではその挨拶の内容を公開します(固有名詞は伏せてあります)。

--------------------------------

本日付けで「○○部」に異動となりました。○○で共に仕事をさせていただきました皆様には、長い間、大変お世話になりました。まずは御礼申し上げます。ここまで、プロジェクトが持ちこたえたのも、皆様の力添えのおかげだと思いますし、こんな自分がここまでやってきて今日というこの日を迎えられるのも、皆様の支えがあってのことだと思います。ありがとうございました。また、開発を効率良くマネジメントしなければならない立場にいながら、能力及ばず、私が至らないばかりに皆様には多大なご迷惑をおかけしたことをお詫び申し上げます。本当にすいません。さて、我々は大きな過渡期に入っています。今までと同じやり方では、今後を乗り切ることはできません。今までは、私が責任持って先頭に立って進めてきたつもりでした。しかし、残念ながら私の時代は終わりました。これからは皆さんが主役です。どうか自分の力を信じて下さい。皆さんには、プロジェクトを破綻の危機から脱したという実績があります。皆さんには、プロジェクトを立て直す力があります。今まで一緒に仕事をさせていただいた私が保証します。皆さん、一人一人が主役になってくれれば、必ずや私の穴を埋めることができます。いや、むしろそうして欲しいです。最後に皆さんに一つ諺を送ります。

「りんごの中の種は数えることはできるが、種の中のりんごは数えることができない」

種から、いくつのりんごができるかは計算できません。1000個でも10000個でも、それ以上の可能性があります。更に言い換えると、皆さん一人一人の力は決して小さいものでは無いということです。「たかが俺一人」とは思わずに、自分の力、そしてそれが影響する可能性に目を向けて取り組んでいただければと思います。そうなれば、私の決断は決して無駄ではなかったということになります。最後になりますが、今後も○○を支えていって下さい。そして、長い間ありがとうございました。

--------------------------------

上の挨拶は言いたかった内容ですが、実際に言葉にできたのは半分ちょいといったところかな。文だけ考えても練習しなかったからダメだったな。

そして17時になり、私は部署の皆の前で挨拶をする時がやってきました。部長に呼ばれて私は中央へと歩き出す。この部で皆に脚光を浴びるのも今日で最後だ。遂にこの時がやってきた。格好良く決めたい。ここでも別の挨拶文を用意してきました。

--------------------------------

本日付けで「○○部」に異動となりました。最後の最後までドタバタしていて、今日というこの日を迎えながら、全く実感が沸かない思いです。入社して以来、○○開発に従事させていただきましたが、今日までの4年ちょっとの期間、ここまでやってこられたのも、皆様のご指導のおかげだと思っています。まずは御礼申し上げます。また、私が至らないばかりに、数々のご迷惑をおかけしたことをお詫びいたします。優秀な皆様に囲まれて、仕事の事はもちろん、社会人としていろいろご指導いただいたことは一生忘れません。共に過ごせたことを誇りに思います。さて、次なる部署は品質保証の業務になると思っています。開発の現場からは離れてしまいますが、また別の切り口から開発プロジェクトに関わっていくことになるでしょう。その時は、今まで開発で得てきた経験を生かして、引き続き○○に貢献していきたいと思っています。また、どこかの機会でお世話になると思いますので、その時は引き続きご指導の程よろしくお願いいたします。最後に長い間、本当にありがとうございました。

----------------------------------

その後は、私の送別会が開かれました。
こうして無事に送り出される日を迎えることができて俺は本当にがんばったと思います。

「おめでとう、俺!」

とりあえず、自分で褒めておきます。
そして、ここでも私は皆の前で挨拶をしました。

----------------------------------

本日はお忙しい中、集まってくださってありがとうございます。また、このような会を開いていただいて大変嬉しく思います。ありがとうございます。今日は挨拶ばっかしてました。さて、入社してから数々の送別会に出席させていただきましたが、遂に今回は私が送り出される立場になってしまいました。新しい気持ちに切り替えることができる嬉しさと、今まで一緒に仕事させていただいた皆様と別れる辛さが混同して、何とも言えない複雑な気持ちです。本当は、もっと気持ち良く、そして格好良く去る予定だったのですが、そうは上手くいかず、最後の最後まで不具合対応に追われて、皆さんに数々のご迷惑をかけ、最後までProjectの癌となってしまったことが悔しく思います。それでも、こうして皆さんが集まってくれたのですから、こんな私でも少しは皆さんの力になれたのかな、と思います。皆さんと共に業務をさせていただいた日々は決して忘れません。確かに私の人生の歴史に刻まさせていただきました。なので、皆さんも私の事を忘れないで欲しいです。3年、5年、10年後に酒でも飲みながら「そう言えば、○○っていう奴もいたなあ」程度に思い出してくれれば嬉しいです。最後になりますが、本日はどうもありがとうございました。

-----------------------------------

こうして私は、この部署を去るまでの役割を全て終えて、晴れて「伝説の男」となったわけです。世の中のどんなプロジェクトであっても、そこには必ず出会い、別れ、喜び、苦しみのドラマがあるのです。私も僭越ながら、ドラマの中の一員を演じることができました。でも、ただ組織に職族して悠々と演じているだけではいけません。自分がやった事に対する影響を考え、そして他の人へとフィードバックさせていく、その流れが成熟した時、私は真の伝説の人間になることができるのです。そういう意味では、まだ「伝説」にはなっていないのでしょう。私が今までしてきた事が効果として見えてくるのは、もっともっと先の話になることでしょう。1年後、2年後、もっと先かも知れません。それでも、今まで自分がやってきた事は線となり、例え「見えない効果」であっても、何らかの力として残っていると信じている。その信念が、異動を決めてから自分が取り組んできた行動の動機だったのだから。

止める皆に背を向けて、私は一人歩き出す。近づいてきそうな荒波の気配を感じながら、
それを見て見ぬフリをして、私は強い決意を抱いて飛び出した。新たな自分を発見するために、新たな自分を作っていくために、新たな目標を設定するために、そして人生を良い方向に曲げるために。果たして行き着く先には何があるのか?。それは誰にも分からない。不透明な未来には危険がある。そんな事は既に承知である。リスクを背負ってこそ得られるものも大きいはず。だからその過程を楽しみたい。人生は死ぬまで終了しないのである。終了しなければ結果なんて一つの過程に過ぎないのだ。またいつか人生を振り返った時に、「まあ、いい人生だったんじゃない」と思えるような道を歩んでいきたい。組織と組織を渡り歩いて自分は変わっていく、そして強くなっていく、強くなりたい道を選んで、私は確かにその第一歩を踏み出した。人生の本当の戦いは、今始まったばかり。乗るか反るかの勝負をしていくのは、これからなのだ。

そして皆と別れた帰り道。俺は一人になった。今までは、また明日出社すれば皆と会うことができたので、一人の時間は僅かであった。もう、明日から皆と会うことは無いのだ。俺はこれから何処に向かって歩いていく?。そんな事を自問自答しながら、考えていると一つの詩が頭の中に出来上がっていました。その詩を公開して、この物語を終わにしたいと思います。

------------------------------------
線で振り返れば長いようで短い

点で思い出せば長いようでやっぱり長い

戦いはここに終わった

言いたい事はたくさんあるけど

つべこべ言うのはもう止めよう

もう過去の話なのだから

だから今は讃えよう

我々の実績を

認め合おう

お互いの存在を

感謝しよう

皆と共に歩んできた事を

そして歩きだそう

新たなる道に向かって
------------------------------------

以上で、本編は終了となります。長い間、ご愛読(?)していただきありがとうございました。
と言いつつエピローグがありますので、まだ続きます(これで本当に最後です)。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

「伝説への道」 第十一回「最終日」

2006/07/27(木)。私がこの職場で業務をする最後の日がやってきました。異動を控えたこの週であっても、評価ルームで普通に検証したり思いっきり現場で戦っており、全くもって実感が沸かない思いです。

特別な思いも無く、朝は普通に起き、そして出社することができました。ただし、少しだけ早めに会社に着くようにしました。着いてから、私は評価フロアに行きました。朝一のため、まだ誰もいない。装置のファンの音がけたたましく鳴っているだけである。人のぬくもりが無く、機械だけの空気の中、人間が私一人という環境が不思議と心地良い。そんな中、電灯もつけず、日光だけの明るさを頼りに私は評価フロアを歩いていく。

私は担当している(今日で終わりであるが)装置の前にやってきた。今は、毎晩のように連続運転で試験させている。今日もがんばって動いている。もう大丈夫だ。もう俺がいなくても、こいつは元気で動いてくれるだろう。そう信じている。我々が苦労の末に作り出した、この装置とも今日でお別れになるという実感が、こうして目の前にやってきてもイメージできない。今までそれが当たり前であったから。それが明日から、当たり前の事が、当たり前でなくなる、そういう現実を迎えようとしている私は、何とも言葉にするのが難しい気分である。初めての異動というものは、こういうものなのだろうか?。いや、もう選んだ道を訂正することはできないのだから、覚悟を決めた末に無心になっていたのかも知れません。

評価フロアの至るところで、装置を連続運転させている。どれも動いている。ここまで到達するのが大変だった。でも、ようやくプロジェクトとして軌道に乗り始めた。もう、俺の時代は終わったのだ。自分でこういうセリフを吐くのは、寂しいものでありますが、組織との別れはいつかは来るもの。それが、私の場合は、今がその時だったというだけのことです。出会い、別れ、苦しみ、悲しみ、そして喜び。そうやって人間は強くなっていく。組織も変わっていく。でも、ただ自然体のように変わるだけじゃダメなのです。良い方向に変えていくのです。良いと自分が信じる方向に変えていくのです。それが社会人としての勤めだと思います。

またしても話が逸れてしまったので元に戻そう。評価フロアで過去を振り返りながら回っていた私は、今度は前に担当していた装置の前にやってきました。そして、私は誰もいない評価フロアにて、装置の前で深々と礼をしました。いや、実際にはしなかったのですが、礼をしなければならないくらいお世話になった装置に対しては、そういう気持ちで前に立ったのです。

私は、装置の中からパネルを1枚抜き取りました。ただのパネルではありません。私が入社以来、デバッグや評価で使っていた特別なパネルです。自分はこのパネルと共に生きてきた。このパネルはずっと私の成長を見守っていてくれた。このパネルのおかげで、今の私がいるのです。お世話になったパネルとも、今日でお別れです。

感謝の気持ちをこめて私はデバイスにそっと触れてみる。熱い。そりゃそうだ。今まで稼動していたのだから。俺が心が折れそうな時であっても、このパネルはずっとずっと動いてきた。そして、このパネルを使って評価したソフトは、日本中、いや世界中で使用されているのだ。巨大な事業環境、巨大なプロジェクトにおいては、自分なんてほんのちっぽけな存在なのかも知れない。しかしながら、私だって確かにこの開発の歴史に1ページを切り刻んだのだ。そういう誇りがあってこそ、今までやってこられたのであり、その気持ちを忘れてはならないし、今後の仕事でも、それをつなげていかなければならないと強く思ったのであった。

パネルとのしばしの間の対面。それは、久しぶりに手に取るものであったが、同時に最後の対面でもある。わずか1分にも満たない間、様々な思いが、パネルから私の両腕を通して伝わってきた。もうこの部署で悔いは残してはいけない。後を引いてもいけない。自分は「伝説の人間」になるべく、こうして最後の挨拶をしている。今日でここを去るという事実を何とか自分に言い聞かせようとしている自分の姿がここにある。

評価フロアで最後の挨拶を済ませた私は、今までと変わらず自分のデスクへ赴いた。
自分のデスクは、2週間前ぐらいから週末を利用して、過去に蓄積された資料の廃棄作業を進めていたので、荷物はほとんどありませんでした。私の机から、徐々に物が無くなっていく様子を見て、私の異動を察知した方もいることでしょう。

私はいつも通りのメール対応に入りました。協力会社のメンバー達も含めて一人一人に感謝の思いを込めながら返信していました。

「ありがとう」

あなたと共に業務をしてきたことは会社人生において忘れることはいたしません。一人一人が私と何らかの形で関わってきた。時には傷つけ、時には傷つけられて、そういう摩擦を経て俺はここまでやってこられた。そして、特に大きな混乱も崩壊も無く、何事も無く、そして自然に今日というこの日を迎えることができたのだ。皆さんはやっていける、それだけの力がある、だから俺が去った後の体制をイメージすることができたのです。俺が新たな道に進む勇気を出すことができたのです。組織を変えるトリガーをかけることができたのです。

夜から最後のMettingが開かれました。もう引き継ぎ残したことは無いか?。いや、あっても今更という話にはなるのですが、念のための確認というスタンスです。皆も私がいなくなるという現実を受け止めて、そこから先に向かって走り出している。その目には、もう私は写っていないのでしょう。もう、私はここの人間ではなくなるからです。

「じゃ、明日からがんばって」

終わりました。全てが終わりました。入社してから4年ちょっとやってきた開発部門における業務は、今日を持って終了となります。終わることを想像すらしなかった昔からすれば、「終了」を自ら選んだのは、業務をしている過程における心境の変化です。それが、次なる成長へのStepとしなければなりません。感傷に浸っている場合ではなく、もう明日から新規の部署で自分との戦いが始まろうとしているのです。この緊張感が妙に心地よろしい。いつの間にか死んでいた心が生き返ったような思いです。日々の業務の中で忘れてしまっていた、仕事への緊張感がまた味わえるのです。そんな心境を引っさげて、私はいつも通り退社したのでした。

☆ ☆ ☆

Tamagawa_jigyoujyou

摩天楼の中に聳え立つビルがある。今まで当たり前にように毎日来ていたビルである。
それが、もう明日からここの人間ではなくなると思うと、とても記念すべきビルのように思えてきました。夜空に向かって磐石な姿で建っているビルが、今日で使命を終える私を送り出しているようだ。いや、そんなことは無いかも知れないが、そういうことにしておきます。

帰りの駅、私はそのビルを見ながら、そして引きずりそうな思いを振り切るように電車に乗り込んで帰路に着いたのであった。

次回は、いよいよ感動の最終回。どうぞ皆さん、泣いて下さい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「伝説への道」 第十回「カミングアウト」

2006年4月。心に重たいものを抱えながら新年度がスタートしました。新年度を機に協力会社を含む開発体制が少しだけ変わりました。おそらく部長が私の提案を聞いてトリガーをかけてくれたのだと思いますが、一言で済ませると、私抜きでも、ある程度仕事を回せる体制になりました。内心では、全て私がイメージしてきた脱出計画の通り進んだように思います。

我々のプロジェクトが人数的に非常に苦しいのは痛いほど分かっている。そんな状況の中で、自分が抜けるということは皆に対して申し訳無い気持ちで一杯です。でも、これ以上自分に嘘をつくことはできません。会社のために生きているわけではありません。自分のために生きているのです。お世話になった皆への感謝として、中途半端な気持ちじゃいけません。強い意志を持って、皆に伝えるのが礼儀です。

G/Wのちょっと前ぐらいの時です。まずは部長を含む部内の数人の関係者がとある会議室に集まりました。まるで雰囲気的に秘密会議のようです。そして、私は数ヶ月後にここを去る事実をはっきりと伝えました。いや、その事実だけでなく、決断に至った理由まで話したつもりです。でも、当時は口内炎の痛みがピークにきていて上手に喋ることができなかったのが、今思えば心残りであります。だって喋るだけで涙が出てくるぐらいの痛みだったのですから。

私の異動事実を知ったその時から、時期開発日程への体制作りと引継ぎ日程の検討が始まりました。一番肝心なのは引継ぎです。過去の経験で蓄えられた頭の中にあるノウハウを資料として残して、皆に伝えなければなりません。Documentを作成するには、膨大な手間と時間が必要です。考えるだけでもうんざりする作業ですが、自分がスムーズに組織から消えるためには、実行に移さなければなりません。

しかしながら、予定を立てたとしても、リリース後で社内でも客先でも試験が本格化すると、様々なトラブルが次から次へと襲いかかってきます。結局は、その対応で時間は刻々と過ぎていき、引継ぎ準備は満足に進められないような状況でした。異動が決まった後でもトラブルと聞いては放っておくわけにはいきません。率先して火消しに回っていて、正直もうすぐここからいなくなるという実感が沸きませんでした。ここで仕事しなくなるというイメージが想像できません。ここから先、一体どうなるんだろう?。でも、そんな心配をしている猶予は無く、異動の直前までデバッグしたり検証したりしていました。

ただし、4月になってから、自分のスタンスを決定的に変えた点があります。それは、人の意見を引き出そうと意識したことです。今までは、「俺がやった方が早い」という思いと、
「早く終わらせたい」という焦りから、私がさっさと答えを出して実行に移してしまっていましたが、それでは、皆が成長することはできません。皆にも課題を考えてもらう必要があります。なので、質問されても私はすぐに答えを出さないで、考えてもらうように、自分の判断で意見を述べ去るように逆に質問していました。最初から、そのようにすればよかったのですが、それができていなかった事が私の人間として社会人として未熟だったところです。

「やればできるじゃん」

そう思わせるような答えが出てきたこともありました。人を信用しないで自分で何でも決めて進めるのではなく、忍耐強く相手の実力を許容する力が必要だったのです。それが人の力を伸ばすやり方では重要になってきます。人を教える立場になれば、そういうスキルは必須になってくるでしょう。教えるのは面倒だ、仕事が増えるのは嫌だから俺がやる、とか、自分より優秀な人間としか関わりを持たない、というスタンスでは、優秀な仕事人にはなれても、優秀な上司にはなれないでしょう。

別に管理職になることが人生の全てではありませんが、立場が変わるにつれて、自分の仕事のスタンスも適応的に変えていく事が社会では必要なのでは?と思います。せっかく技術があったとしても、人間的に魅力が無かったら部下から見放される管理職になることでしょう。それが「悪」とは言いませんが、「良」だとは私は思いません。今回の異動を機に、自分の仕事のスタンスを見直し、それに気付くことができたのは人生において非常に有益だったと思います。不満を抱えたまま、このプロジェクトに残っていたら、見直すことなく、成長の機会を逸していたのかも知れません。価値観を変えていくには、何かしらの強いトリガーが必要で、私の場合は異動への決心がトリガーだったのです。それが、多少のリスクがあったとしても、人生を変えたければ、リスクを承知で飛び込む勇気が必要なのです。

話がかなり逸れてしまいましたが、こうして私の接し方を変えた効果もあって、皆が自主的に動いてくれるようになってきて、いよいよ私が抜ける下地が整ってきたわけです。

そして異動日から一週間前、いよいよ内示の時を迎えることになります。事業部のトップのところに出向くわけではありますが、内示は口頭で、「それじゃこの日から○○事業部へ異動となります」と言われるだけです。「じゃ、後はがんばって」と言われて、5分も経たないうちに内示は終わりました。これのために普段は着ないスーツを着てきたんですけどね。そのままトイレで着替えて、フロアにいつも通り何事も無く出社しました。

内示を受けてから正式に私の異動が決まったことになります。これで、ようやく全員に対して異動を公表することができます。その後、上司から部内の関係者に私の異動が公表されました。私は、異動の雰囲気をそれまで出していなかったので、知らなかった人にとっては衝撃が走ったようです。そして、一緒にやってきた協力会社の方には、自ら異動の事を伝えました。既に、異動の事は知っていたのか、それほど大きな混乱は見られませんでした。特に大騒ぎされなかったのは、自分としては寂しいものがありますが、そう思ってはいけないのですね。なぜなら、それは自分が抱いた理想なのであるから。自分がいなくても組織が破綻しないで、やっていけるような手を打ってきたのでありますから。

協力会社の方々も一年前、いや半年前と比較すると、取り組み方に確かな成長が見られています。もう、自分がいなくてもやっていけることでしょう。本来は、やればできる力がありしっかりした人間が揃っているのです。意識を持って、ベクトルを合わせていけば、きっと今以上のOutputを出してくれることでしょう。自分には出せなかった結果を出していって欲しい。いなくなる私は、そう願うだけだ。

皆との別れは、もうすぐそこまで来ているのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「伝説への道」 第九回「理想に向かって」

異動を決心した俺は、まず組織における自分の位置付けを現状分析することから始めました。改革を実行するためには、今の状況を冷静にしっかりと把握する必要があります。
問題が見えない状態で対策を打っても意味が無いからです。

俺の上には優秀で高負荷な主任がいました。100人中ほぼ100人が「キーマン」と答えるような状態でした。一方、私はこの主任の下で、主任と協力会社のパイプのような役割を担っていました。メールや電話だけの一方的な依頼だけでは、100%意図通りに動かすことは不可能と言っていいでしょう。随時フォローする必要があります。なので、私はフロアでできる作業も、実験室でやっていました。他の人の作業を見守るのと、何かあったらすぐにフォローを入れるためです。一言で言えば現場監督です。こういう役割は、本当に上から見れば、見えにくい立場です。これを私は、「隠れキーマン」と定義することにしよう。「キーマン」の高負荷がクローズアップされることで、逆に「隠れキーマン」となってしまっている。
それが今の状態だと判断しました。

さて、こういう状態で、黙って抜けると一気に崩壊することは目に見えています。「隠れキーマン」から脱却するためには、どうしたら良いだろうか?。私が「隠れキーマン」にならないように、皆の実力を底上げする必要があります。自分が頑張って生産性を20%向上させるよりかは、他の10人が10%がんばって向上してもらった方が遥かに効果は大きいのです。でも、それに気付くには、あまりにも遅すぎた。俺は罠にはまっていたのかも知れません。

「俺がやった方が早い」

そう思った事は、数え切れないほどありました。他人に依頼すると、それだけフォローしなければいけない作業が発生するので面倒です。それなら、自分一人でやった方が管理も楽だし、気も楽である。でも、この思いが皆の成長する機会を継続して奪っていき、今の組織の気質になっていったのです。責任感から率先して動くという姿勢が仇となってしまう場合がるということを私はこのプロジェクトで学びました。他の皆が、もっとやりたいように伸び伸びと力を発揮してくれれば、10%の向上なんて容易でしょう。でも、それができない何かがある。きっと考えればいろいろ出てくるでしょう。それが「抑止力」となって、皆が思うように動けない環境になっている。なので、「隠れキーマン」から卒業するためには、この「抑止力」を取り除く必要があるのです。

そして、考えた末の結果、その抑止力は、皮肉にも私自身であることに気付いてしまったのです。今まで責任を持って、苦しい時でも、前に前にという思いで、破綻の危機を切り抜けて、ここまでやってきたというのに、この事実を認めるのは正直辛い思いがありました。
でも、もう自分に偽ることはいたしません。正直な思いからきたのが異動の決心なのですから。

時は2006年1月のことです。社内の人材公募が行われた時期です。私は、社内HPで募集職種を調べました。いくら異動の決心をしたと言っても、やりたい内容が無ければ、異動を先送りにしようと思っていました。ただ抜けるのでは無く、抜けてかつ今までの業務経験を生かせるような仕事をしてキャリアを磨こうと思っていたからです。そして、私は「品質保証業務」の募集内容を見つけた。

「これだ!」

募集対象が今まで開発を経験した人、となっていたので、自分がやりたい事、過去の経験をつなげる事ができる、正にうってつけだったわけです。そこには、不思議と一種のひらめきみたいなインスピレーションがありました。自分の人生を変える数少ないチャンス。そう思いました。これを逃すわけにはいきません。何としても、このタイミングで、私はこの組織から去ることを実現させようと決意したのです。

応募するのは結構手続きが面倒です。当然のことながら、志望動機と今までの業務内容をまとめなければならないからです。特に志望動機は、「自分に何ができるか」を希望異動先に対して、強くアピールする必要があります。これは冷静になってじっくり考える必要があるので、平日での通常業務との並行作業は無理と判断した俺は、土曜にこっそり出社して、この手続きを完了させました。それから一週間ぐらい後のことでした。退社しようとしたところ、部長に、

「○○君、ちょっといいかな?」

と呼び出されて部屋に連れていかれました。もちろん1対1です。

「俺、クビですか?」

なんて思ったりもしました。それだけ不具合も出していることだし、どういう結果になっても仕方無しと覚悟を決めていました。でも、結構びっくりしました。たかが、ぺーぺーの私を一人呼び出して何の話をするつもりなのか?。直前まで意図を掴むことはできませんでした。

話は以外な内容でした。それは、私が不満を抱いている事を察して、「何が不満?」「今後、どういう改善を期待するか?」という内容でした。去年の10月にあった上司との面接で、私は不満を正直に言いました。そして、それが改善が見えない場合は、自ら異動への道を選ぶだろうと宣言していたのです。今、思えば宣戦布告のような姿勢でしたが、それぐらいの覚悟を抱かないと、人を動かす事はできません。組織を変えることもできないのです。だから、私は敢えてリスクを犯して行動に出たのです。その話が巡り巡って部長に伝わって、私が抜けるかもという事実を知って、忙しい中、話を聞く時間を作ってくれたのでしょう。俺ごときに時間をかけたことには感謝しなければいけませんし、の意見を聞く姿勢を持った上司は尊敬します。

そして、私は半年以上かけて練ってきた改革後の開発体制のイメージを正直に話しました。単に俺の負荷を減らしてくれ、という要望ではありません。○○の理由で、○○した方が効率が上がるはず、という感じに組み立てて話しました。もちろん、その裏には私が抜けられる体制という「もう一つの目的」が隠れているのですが、その時はそんな事は言いませんでした。そして、私が既に異動への道を歩みだしている事も部長も知りません。まだ異動できるかどうかも決まっていないのですから。

こうして私は、自分が抜ける施策と組織を変える施策の両面から手を打っていったのです。何か組織を動かしているような感じがして気分が良かったです。以前までは、会社に利用される人生だったような気がします。でも、そんな人生は面白くもありません。これからは、自分の人生のために会社を利用するという考え方が必要です。そういう価値観を抱けば、常に個人の尊厳を保つことができ、組織につぶれてしまうことも無いでしょう。社会で生きていくには、そういう心構えも必要です。

しかし表では、異動への動きを出すことなく、プロジェクトの方は商用出荷に向けて、次なる機能の開発を進めていきました。依然として、私が担当する箇所は機能追加に伴う変更量が多くてプロジェクトのネックになっていましたが、史上最大の危機を乗り越えた我々に怖いものはありません。不思議とできない気がしなかったのです。今までの知識と経験をフル稼働させて、仕様検討、実装、デバッグを力技でこなしました。何が良かったのかは分かりませんが、動くまでにそれほど時間はかかりませんでした。本当はデバッグでもっと苦戦してはまる予定だったのですが、まあ、その時は頭が冴えていたのでしょう。

リリースを控えた2006年2月。我々のチームは、毎日9時からの朝会を始めました。去年の「最期の戦い」でやっていた朝会とは趣旨が違います。不具合が出たからやるのではなく、効率的に皆の力を合わせてリリースを乗り切ろうというポジティブな気持ちから企画されたものです。それだけでも、モチベーションが違います。2月は、評価を本格的に進めるにあたって、それなりに障害対応に追われていました。

そして、それと同じくして私の異動計画も着々と進んでいました。いよいよ応募先の部署と面接する日を迎えたのです。普段、スーツなど着ないウチの部は、スーツ着ると、どっか行くのか?という気持ちになります。この時期だけに(社内では人材公募の面接が行われる時期は周知)、私がスーツを着てくれば疑われることは間違いありません。リリースを間近に控えた時期に、皆を動揺させるわけにはいきません。そんな私は、スーツに着替えるたみに、午後休を取得して、一度家に帰ってから面接へと向かいました。この用意周到さが、水面下で事を進めるポイントです。

応募先の職場は、今までと違う場所にあります。20時ごろから30分程度の面接時間でした。相手は、向こうの部長と人事の担当と名乗った人の2人でした。私は、気持ちを整理して言いたい事、伝えたい事を話しました。いや、話したつもりだったのですが、うまく話せなかったような気がします。この時、私は不合格だと思いました。残念です。このチャンスを生かせることができなかった。でも、自分の業務体験を振り返ることができたことは有益だったと思うし、当面は今の開発を続けていきながら、また異動の機会を探ることにしよう。その時は、そう思っていました。

そして、面接から二週間後ぐらいした時、私は再び部長から呼び出されました。

「ついに来た!」

ついに来るべき時が来た、そう確信しました。去年から考えていた脱出計画が現実のものとすることができた嬉しさと、ここを出て行かなければならないという不安が交錯して、何とも言えない複雑な気持ちでした。そして、案の定、私が異動先の面接に合格したことが伝えられました。

人材公募というものは、所属している直属上司に一切経由せずに進めることができます。
つまり、個人で応募して個人で面接に行って合否判定を受けます。不合格の場合は、そのまま個人に伝えられますので、上司には一切話が入ってきません。合格した時に初めて、部長クラスに話が伝わります。その後、調整して正式異動日が決定する流れになります。

「不満があればもっと早く言って欲しかった」

それが最初の部長の言葉でした。不満と言ってもいろいろなレベルがあり、簡単に解決できる不満と、根本原因が組織として根付いていて、そう簡単に解決できない不満とがあります。いくら私が不満を言ったところで、私がこの組織に存在している間は、改善されないでしょう。だから私は行動を起こしたのです。口で人を動かしているレベルでは、それは相手からすれば受動的に動いているに過ぎません。受動的な人間が多数を占める組織では、改善できる範囲には限界があります。行動で人を動かさなければいけないのです。
こうすることで、人は能動的、主体的に動けるようになるのです。これが自分が他人に影響を与える力なのです。口は権力、行動はカリスマ。カリスマを伴った権力は強い。自分は将来的には、少しでもカリスマに近づきたい。そのために、私はにまだまだ修行が必要です。同じ組織に埋まっていては視野が狭まっていき、いろんな考え方を吸収することは困難でしょう。ですので、私は違う組織に飛び出してクールダウンさせながら、今後の自分のあるべき姿を考える必要があったのです。

「私がもう少し早く動いていれば、○○君がこのような決断することは回避できたかな?」

部長は、普段はこんな「タラレバ」を使う人間ではありません。このような弱気な発言をすることは珍しい一面を見ました。でも、それだけのことを言わせる重大な行為をしたという実感を知らされました。部長自ら、このプロジェクトを見るようになってから、本を紹介してくれたり、開発の進め方を紹介してくれたり、下の人間に対して積極的に情報を回してくれました。でも、それも私が異動への道を走り始めてからの話。正直、部長が数ヶ月前から私と関わっていれば、結果は変わったかも知れませんが、それを断言できるだけの自信はありません。

「正式な異動は向こうの部長と調整して8月ぐらいになると思う」

部長は最後にこう言って、1対1の運命の面談は5分足らずで終了しました。それから、更に二週間ぐらい後に、人事から正式に異動決定通知がメールで届きました。異動日は2006/7/28(金)、この時から起算してまだ4ヶ月以上後の話で、全くもって異動するという実感は浮かびませんでした。異動が決定した日は、皮肉にもプロジェクトが商用リリースする日で、打ち上げを予定していた日でした。この打ち上げを、私が自ら幹事となって準備していました。今まで苦労を共にして仲間と喜びを共有したいという思いと、ぎりぎりまで私が異動するという雰囲気を隠そうという思いがありました。しかしながら、私はこの打ち上げで、自分が異動するという事実を正直に正々堂々と伝えようと思いました。それがお世話になった皆さんに対しての最高の演出、最高の感謝だと思ったからです。でも、この事を部長に相談したら、

「今は、まだ公表しないで欲しい」

と却下されたので、今回の打ち上げでは自分の胸に閉まっておくことにしました。

立ち上がってから危機の連続だったが、無事にリリースまで辿り着いたプロジェクト。苦労が大きい分だけ、リリースに到達できた際の喜びは大きい。だから、この日は久しぶりに楽しく騒げた宴会でした。そう、私一人を除いては。。。俺がいなくなる現実を、ここのメンバーはどういう風に受け止めるのだろう?。それを想像すると、胸が苦しい。この時では、
まだ、私が数ヶ月後にこの組織からいなくなる事を、ここのメンバーは誰一人として知らなかったのです。

「いつカミングアウトしようか?」

そんなタイミングを見計らっていた時期でもありました。苦しい時も、一緒にやってきた皆さんに、こういう事を言うのは正直とても心苦しいが、いつかは言わなければならない時がやってくる。心に重たいものを引きずりながら、2006年度を迎えることになります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「伝説への道」 第八回「人生振り返り(後編)」

高校に進学した私は、弓道部に入りました。男子校ということもあって、文化祭などのイベントでは、惜しむことなくフィーバーしたり、それなりに充実した高校生活だったと思います。そう、学力の件を除いては。成績の方は底辺をはいつくばるような状態でした。元々、ギリギリの線で入学してきた俺にとって、高校で落ちこぼれることは容易に想像できるものであり、それは最初の中間テストから、まじまじと「できない人」の現実を見せ付けられたのです。埼玉の学区内(当時、埼玉の公立高は学区制でした)から強者が集まってくる、私の高校の中では、太刀打ちすることができなかったのです。

何が分からないのか分からない、という典型的な「落ちこぼれ」状態になっていました。
成績はクラスで5本の指に入っていました、ただし下から数えて5本の意味です。高校でやっていた実力テストでは、偏差値30台も平気で出していました。今までの人生では、考えられなかった数字ですが、それは中学時代までが、それだけ狭い世界で生きてきた証拠であり、その現実から脱却する気は、徐々に薄れていったのです。

高3になっても、とても名のある大学を目指すには、ほど遠い学力だった俺は、とある大学の模擬試験の1科目で、5点(250点満点)を叩き出したことがあります。何のために受けたのか意味が分かりません。

路頭に迷った俺は、パチ屋に通っていました。高2でパチンコを覚えた俺は、部活を引退した高3の夏ぐらいから、地元のパチ屋へ行くのが癖になっていました。初めてスロットを打ったのも、それぐらいの時期です。本当ならば、勉強しなけばいけない時期なのに。目標を見失った当時の俺は、そんな気力も無かったのです。あまりにも分からなさ過ぎて、どこから勉強したら良いか分からなかったわけですから。そんな俺は、大学にも当然受かるわけが無く、そのまま浪人生活に突入しました。

「二浪は許さん」

という親の方針により、後が無くなりました。現役時代は、「もしかしたら」を期待して、冒験ばっかしていましたが、浪人の年はそうもいきません。どこかしら安全圏を入れて、最悪の場合は、そこに進学しなければなりません。中3に続いて、人生の中で2回目の今後の人生を左右する「運命の年」になったのです。

浪人時代もスロットは週1~2回程度打っていましたが、予備校の授業は1回もサボることはしませんでした。自分で勉強することができなかった俺は、まずは言われた通り予習復習中心の勉強していました。そして、自然と今までできなかった問題ができるようになっていったのです。最初からやればいいじゃん、と思うかも知れませんが、それができないのが人間であり、それだけ俺の努力が足りなかったということです。

英語はどうしてもセンスみたいものがあり、最後までネックになっていたのですが、数学、物理、化学は勉強した分だけ力がつく科目です。結局は、できる限り多くの問題に触って、知識の引き出しを増やしていき、それを適切な場所で使っていくスキルが問われるわけです。大学に入るまでは、学問はありません。受験は、一種のテクニックみたいなものです。その流れさえ掴んでしまえば、もはや受験は怖くはありません。ここまで大きく書くと東大を目指しているような人間だと思われるかも知れませんが、残念ながら俺はそこまでの人間ではありません(笑)。しかしながら、諦めかけていた名のある大学への合格が見えてきたのは事実です。既に某一流大学を卒業した兄の影響なのか、俺もようやく肩を並べることができる現実が見えてきたのであり、その姿をイメージできるぐらいのレベルにきたのです。

「俺には無理だ」

何度、そう思ったことだろうか。ここで、二流以下へとドロップアウトして、後ろめたい人生を送る現実を何度想像したことだろうか。でも、それは現役時代の話。2回目の受験を控える直前の冬休みは、そんな負のイメージは消し去っていました。認めたくないイメージは、最初から抱かなければいいだけの話なのです。そして2回目の受験。俺は第一志望の大学こそ不合格であったが、何とか世間的には一流と呼ばれる某私立大学へ合格することができ、そのまま進学した。これが人生2回目のターニングポイントだったことになります。

現役時代は、物理の運動方程式もロクに書けなかった俺が、ここまで学力を伸ばすことができた理由は、今振り返ってもトリガーが分かりません。でも、やるべき事(勉強)をやった事によって、道を開けたのではないかと思います。まあ、受験するからには勉強しなければ合格するわけがないのですから。

大学には院時代も含めて6年通っていました。6年も行っていたのに、あっという間に過ぎ去っていきました。小中高と比較して、振り返るだけのネタが少ないというのが事実だったかな。サークルもやった、勉強もした、パチンコ屋にも行った、デートもした、バイトもした。
そして、4年になる時に、無線の研究をすることに決めた。

ここで自分が進むべき道を決めた瞬間を振り返ってみると、やりたい事って生きている間にいくらでも変わるものだということに気づいたのです。小学校時代は、コンピュータのプログラマになりたいと思っていました。しかしながら、大学2~3年の間に学科の専門科目をいろいろな領域に触れることで、他に面白そうな領域を見つけたのです。今、やりたい事をやってみる。そして、次につなげていく。そういう意識を持って、人生を創っていくのですね。

大学4年から院時代の3年間、無線の研究をしている間が、今、思えば最も楽しく、かつ充実した人生だったような気がします。やりたい事を勉強すればいい身分。授業もほとんど無く、拘束時間も少ないので、自分の都合に合わせて研究できるという環境。好きな時にスロットを打てるという拘束時間の少なさ。また、大学の金で学会発表するために海外に行ったり、学生時代にしかできない貴重な体験をしたし、その財産は今でも生かされていると思う。一番印象に残った年が修士2年の時だったかな。学会発表の準備と就職活動と、それに加えて修論を進めていたので、忙しかったのは確かであるが、それだけ充実していたような気がします。博士に進学しようか迷った時期がありました。最新の技術内容が、世界レベルで飛び込んでくる研究環境は、やっていて面白いし魅力的であったが、早く給料が欲しかった俺は、行く気が無い会社への就職活動をさっさと切り上げた。そして、何の苦労も無く某大手メーカーに就職した。

非常に長くなりましたが、以上のような経緯で社会人になった俺を振り返ってみると、そこそこ運が良かったように思います。1度ならず2度までも、諦めかけていた「一流」への道。小さい時からイメージしていた自分の大人像は、確かに現実のものとすることができたのです。大人になった私を家族もいつの間にか受け入れてくれていました。

でもね、世間的には一流かも知れませんが、私は自分の事を一流だとはちっとも思いません。大学に入ったって、やる事が見つからないで、そのまま留年を繰り返す人間だっている。就職したからといって、そこで終わるわけが無い。これから30年以上、勤務しなければならないのだから。そこで、何ができるか?を常に考えることが必要なのだ。私なんぞまだまだです。やらなければいけない事は山ほどあります。そこから何をするかで人生が決まってくるわけです。入ることより、自分自身の能力及び人生を継続的に理想に向かって、改善させていく努力が必要なのです。そして、今、私はその岐路に立たされたことになります。

今の俺には、正社員という「地位」がある。「いい会社だね」と言われるちょっとばっかりの「名誉」もある。そして、ブランド物を買ったり、一番金がかかるお盆に北海道に旅行に行っても生活に困らない「金」もある。物心ついた時から、抱いてきた幸せになるための三種の神器は、別に自慢するほど凄いわけではないが、一通り手に入れたつもりである。それなのに、それなのに、この空白のような気持ちは何だろう?。ずっと信じてきた夢のような大人の世界、それをイメージして生きてきた世界なのに、その行き着いた先は、こうも虚しい現実だったのか。。。。。。

★ ★ ★ ★ ★ ★ ★

ここで、プロローグに書いた言葉を再度自分に問いかけてみよう。

「あなたは、今幸せですか?」

幸せか不幸せか問われたら、今の私は、間違いなく不幸せだと思います。まず、お金があったとしても、それを使う時間が無ければ意味が無いことに気付きました。目標を見失った俺は、自尊を抱くことを忘れ自然に会社の歯車になっていった。そしていつの間にか心が死んだ人間になり、無心で働く技術を覚えた。無心になれば、喜びも悲しみもありません。怒りさえもエネルギーに変換し、自分を動かすことができました。

心が死んだ俺は、だんだんと人と交流するのが面倒になった。そして、平日は会社と家の往復、休日は朝一からスロ屋、という生活が続いた。一ヶ月間、JR横浜線沿線から出なかった月もある。終わってますね。確かに朝から晩まで、たった一人で好きなスロットに打ち込めるのは楽しかった。何もかも忘れて一人になれる唯一の時間なのだから。一種の麻薬みたいなものである。平日に溜まったストレスを、スロることで、頭を真っ白にリセットすることができ、また翌週へ臨むことができたのです。

でも、長い目で見ると、そんな人生楽しいわけが無かった。就職してから、生きていて楽しいと思った事ってあっただろうか?。ぱっと考えても思いつきません。自分の心の影を見せまいと、会社やプライベートでは馬鹿を振舞ったりもした。顔では笑っていたけど、心の中では泣いていました。どれが本当の自分なんだかさっぱり分かりませんね。そこには、本音と建前を自動的にスイッチできるような人間に作られた俺がいたのです。

上で言っている本音って、どれくらいの本音なんだろう?。それは「建前モード」より少し俺の核心に近づいた内容に過ぎないのではないだろうか。果たして、俺はありのままの本音を誰かにぶつけたことがあったであろうか?。振り返ってみると記憶が思い当たらない。
家族ですら本音を言ったかどうか自信がありません。親の前では、未だに、「良き社会人であれ」という人間でいなくてはならない思いがあって、それが知らず知らずのうちに「建前モード」の存在を助長していったのかも知れません。

要するに疲れたんですよ、自分に嘘をつき続けたという事に。なので、自分の気持ちに正直になってみたかったのです。

悪い流れは変えなくてはなりません。

まずは、自分の理想像を考えてみることから始めました。小さい時に描いていたものと、現実が一致するか否か。人生を振り返ることで、それが可能となる。冷静になると、自分がイメージしていたものは、社会人になるまでの姿であって、そこから先の目標が無いことに気づいたのです。これから自分で目標を定めなければなりません。

社会に出るまで、学校で勉強している間は親から貰った人生、社会に出てからは自分で創っていく人生。そこに気付かなかった俺は、親から貰った人生を引きずったまま、社会で生きていたのです。自分で創っていくという事を忘れていたのです。後悔しても仕方ありません。今、気付いたので、とてもラッキーでした。プラス思考で行こう。

でも、今の俺に何があるのだろう?。ちょっとばっかしの名誉と金だけじゃ幸せになれなかった。何が必要?何が欲しい?。名誉は必要無かったな。俺と同じ大学出ている人間は世の中に山ほどいるわけだし、別に大したことは無い。ここまでやってきたというプライドなのか。確かにそれは重要だ。プライドが崩れたら、きっと俺は死んでしまうだろう。就職してからは、プライドが自分を動かす原動力だった。それが責任感につながり、どんな役目だろうと進んで引き受けることができたのだ。

しかしながら、社会というものは不平等なもので、真面目に取り組んでいるだけでは報われない事を教えてくれた。常に自分にとって利益不利益を考え、効率良く生きていくのが必要だと教えてくれた。だから、俺も実行しよう。自分の利益を考えて。自分の気持ちに正直に。

「自分は何をやりたいのか?」

こういう問いかけをしてみよう。俺はこのプロジェクトで数々の失敗をしてきた。それは、もちろん自分自身の能力の無さが一番の原因であるが、組織的にもっと大きな根本的な原因があるはずだと密かに思ってきた。もちろん、「この組織が悪いんだよ~」なんて俺が言ったところで相手にされるわけでもないし、上の対する悪口など言えるはずもありません。
それに、あまりにもテーマがでかすぎて自分の頭のイメージがまだ雲のように霞んでいたので、具体的な言葉で説明することができなかったからです。

「どうすれば、この組織はうまく動かすことができるのだろうか?」

偉そうな思いですが、密かにこういう疑問を常に抱いて業務に携わっていました。業務をしている傍ら、このプロジェクトがうまく機能していない真の原因を考えていました。問題は、原因を突き詰めることが一番難しいと言われます。原因さえ分かってしまえば、後はそれを対策すれば良いわけなのですから。原因も良く分かっていないのに手を打ったところで、大抵の場合は機能しないのです。

俺の能力、他人の能力、人だけではありません。「やり方」に明らかに問題があるのです。でも、どういう風にそれを変えたら良いか、今の俺には分からなかった。問題点はいくらでも指摘できるのだが、それを解決するやり方と効果まで自分で考えついていなかったので、そんな意見は説得力を持ちません。言うだけ無駄です。いや、文句は結構言っていた方です。しかし、組織を変えるような核心に迫る意見は、自分で案を練るまでは、そっと溜めておいた。誰にも相談せず、誰にも相談することもできず、俺なりの案を練り続けた。

良い「やり方」が分からなければ、それを実行している他の部署は無いのだろうか?。自分は組織のやり方を考える事に興味を持ち始めていました。この「やり方」を先駆的に取り組んでいる組織が社内にあったとしたら、俺はそこに飛び込んでいって、それを学びたい。そしてその技術を学んだら、それを今の組織に持ち帰って生かすこともできるだろう。

無線の研究をしてきた俺は、そのまま無線関係の業務を今までやってきたわけである。
それは、今までの知識を生かせる仕事だったのが大きな理由です。

「やれる仕事」から「やりたい仕事」へ。
「活躍できる組織」から「活躍したい組織」へ。

俺はこのようにパラダイム転換していったのです。大学時代と同じように生きているうちにやりたい事が変わってくるという事を体験しました。そして、俺は自分に正直に生きる決心をした。

プロジェクトで失敗を繰り返した俺は、やがて信頼を失った。責任を取るのは今が自分にとっていい時期である。責任を取るという建前上の理由は、今の俺なら説得するには十分な前科がある。今、抜けないときっと後悔する。行動しないで、このままずるずると居座っていたら絶対後悔する。確かに他の部署に移るということは大きなリスクを伴う。でも、それぐらいの賭けをしなくては、今の俺を変えることはできない。

「やらないで後悔するよりかは、やって後悔」

自分を信じろ。俺はいつだって行動してきたではないか。何を恐れる。ここまで来たら、失うものは何も無いではないか。

非常に長くなった「振り返り」ですが、以上のようにして、俺は「自分の変化」と「組織の変化」を実現させるべく行動することになります。時は2006年元旦。今年の俺はやってやる、そう誓った日でありました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「伝説への道」 第七回「人生振り返り(前編)」

前回、会社人生の観点から異動を決めた経緯を述べましたが、今度は、それ以前も含めて人生そのものを振り返ってみようと思います。長くなりそうなので、前編と後編の2回に分けました。本編と脱線している内容もあるかと思いますが、気長に読んでやって下さい。

未来は過去の延長線上にあります。自分が思い浮かべる未来がかすんできた時、過去を振り返ることで、忘れかけていた未来をイメージすることができるのです。突っ走っている時は、過去を振り返ることなんて、ほとんどしなかったのですが、進む道に迷った今、真面目に振り返る必要があるのです。私は、よく考え事をします。白昼夢ではありませんが、家にいる時、電車の中、トイレの中、タバコを吸っている最中でも、無の時間ということは、ほぼ無いと言っていいでしょう。皆さんも無意識のうちに考え事をしていると思いますが、それはイメージを頭に焼き付けることで、自分が次に打つべき手を模索し、それを実行に移そうとしている準備なのです。今回の人生に関する考え事は、それがちょっとばっかりスケールが大きいということです。

自分は三人兄弟の末っ子として生まれました。6歳上の兄と3歳上の姉がいます。物心ついた時から数字に興味を示し、小学校時代で一番好きな科目は算数だったと思います。

小2の時、九九の100問テストを毎日のようにやっていました。この100問をどれだけ速く解くというのが一つのステータスになっていました。今、振り返ればクラスでトップになった記憶しかありません。気がつけば、クラスの中で、もはや敵はいませんでした。いつしか学年全体でも敵はいなくなりました。誰も私に勝つことはできなかった。最高記録は1分38秒でした。当然のことながら100点満点です。満点でないと記録して認定されないからです。

トップは気持ち良かった。家では上2人の兄姉がいる環境で、私はいつも親兄弟の顔色を伺って生きてきた。言いたい事も言えず、幼いながらも抑えていた自分があります。それが、学校という外の世界では、抜きん出た計算の速さがあればヒーローになれたのです。当時の私は学校が楽しくて仕方無かった。

でも、夢のような毎日が終わる日がやってきます。別のクラスで、私の記録より1秒速い1分37秒を叩き出した人が出たのです。今まで、トップで当たり前というプライドが否定された瞬間です。私は担任の先生の前で泣きました。思いっきり泣きました。そして担任の先生は、こう言いました。

「○○君(俺の記録を抜いた人)は公文に行っているのだから、できて当たり前。○○君(俺の事)は、公文も塾にも行っていないのに、これだけの記録が出せるのだから、○○君(俺の事)が実質トップのようなものよ」

このように慰めてくれました。正直、この時の記憶は曖昧になってしまっていますが、当時のエピソードは母は覚えていて、小さい頃の話になると、たまーに掘り返して、「あー、そんな事もあったっけ?」と笑い話にしています。また、この担任の先生は、私が生涯で最初の恩師と位置づけており、未だに年賀状のやり取りをしています。さて、敗れた後の私は結局逆転できたかというと、よく覚えていません(笑)。まあ、多分2位のまま小2を終えたのだと思います。それ以降の小学校時代でも、授業の内容が簡単過ぎて、学校がだんだんとつまらなく感じてきました。既に県内の進学校に入学した兄を見て、私も無意識のうちに「一流」への道をイメージするようになっていたのです。

ガキの頃に思っていた大人になってからの幸せ像は、「地位」「名誉」「金」の3つでした。
この3つに強いて加えるとしたら「安定した家庭」といったところでしょうか。「地位」と「名誉」は似たようなものですね。「地位」だけあって「名誉」が無いとか、その逆のパターンって、宝くじでも当てない限り、そうそう無いですからね。当時の俺としては、格好良く価値があるものとしていたものが、その3つだったのです。

今、思えば何とも単純かつ夢が無い未来像だと思いますが、人生経験もロクにない小学校時代では、親を中心とした、ごくわずかな大人の世界だけを見て目標を定めるしか無かったのです。できて当たり前、クラスで上位で当たり前、常にそういう人間像を求められてきた私は、気がつけば、「一流」しかイメージできない人間になっていたのです。

でも、それが悪い事だと思いませんし、後悔もしていません。そういうイメージがあって、
今まで動機付けてきたお陰で、こうして無事に大人になり社会に出ることができたわけであり、両親には感謝しなければならないと思っています。それに、中学校及び小学校の「お受験」に参戦してくる子供は、目に見える要素だけの「一流」によって動機付けられた人がほとんどでしょう。将来の夢、なんて奇麗事に躍らせないで、まずは人生の選択肢を広げる第一歩が上位校への入学だったのです。それが、社会を生きて現実を知っている親の選択なのでしょう。私は3人兄弟なので、私立中学に行けるだけの経済的余裕が無く公立中学に行きました。そんな背景を踏まえて、小学校を卒業する頃には、「公立中学」→「進学校」→「一流大学」→「一流企業」という短絡的な人生の流れがイメージとして定着していたのです。

小学校時代をクラスでほぼトップ気味で卒業した私は、中学校に入って一つの挫折を経験することになります。複数の小学校からいろんな人間が集まる中学では、自分より「上」がいくらでも存在することを知りました。時はバブルが崩壊する直前、業者テストによってはじき出される偏差値によって自分の存在価値が問われる時代です。偏差値が自分のステータスとなっていた時代です。その偏差値が、上位レベルの値になっていないと分かった解き、私は焦りました。半分より上にはいるのですが、それも「中の上」ぐらいの偏差値で、このままでは進学校への道は閉ざされてしまいます。描いていたイメージと現実との違いを見せ付けられた時期です。

二流以下の人生なんて想像もしなかった、いや、できなかった。そんなイメージを自分が抱くことを許さなかった。焦った俺は、中2の冬に塾へ行きたいと自ら志願して、当時埼玉では圧倒的なブランドを誇る「○○義塾」へ通うことになったのです(今は潰れてしまいましたが)。塾へ通ったことで、自惚れで家庭学習をほとんどしなかった俺が、一定の勉強するクセを身につけることができました。しかし、それでも成績は満足する値には上がることはありませんでした。

そして受験の天皇山と言われる中3の夏休みのことです。中堅レベルの偏差値しか出せなかった俺は、母と一緒に県立の中堅校に見学に行きました。嫌でも見せ付けられる「二流」への道。これが、今置かれている俺の状態。認めたくない。でも、逃げることは、もうできません。実際に高校を見学して、そこに入学する自分を想像しようとしました。その高校は、制服が無く、私服でのびのびと楽しい雰囲気がありました。

「楽しそうな高校だね」

母はそう言ってくれました。イメージできない俺を見て慰めて言っているのか、良く分かりません。気を使って言ってくれているようで、心が痛かった。そして、見学に行った事を知った父はこう言いました。

「○○高だったら、せいぜい○○大がいい線だろう」

高校名と大学名は敢えて書きません。もちろん馬鹿では入れない学校ですが、社会的には二流に位置付けられている学校です。俺は悔しかった。そして、親に対して申し訳無い気持ちで一杯だった。二流になると、どういう人生が待っているのだろう?。幸せな人生という未来が否定されたような気がして、とても不安になりました。イメージを浮かべることができなかったからです。

中学の道徳の時間で、有名高校の受験に失敗して自殺した中学生のビデオを見せられたことがあります。その頃から、偏差値による加熱意識に教育委員会が危機を抱き始めていたのでしょう。当然、私は受験に失敗したぐらいで、命を絶つなんて愚かな事はしないし、そんな勇気もありません。しかし、外でも家庭でも日の目を見ない人生は、やはり受け入れるわけにはいきません。

「ここで、俺の人生終わるわけにはいかない」

夏休みが終わって、2学期になり、俺の偏差値はようやく一皮向けました。そして学年で一桁台に乗るようになったのです。何がトリガーで偏差値が上がったのかは覚えていません。結果論かも知れませんが、今考えると二流へのマイナス思考を完全にイメージから取っ払った効果があったと思ってます。

中3当時は、兄も姉も私立大学に通っていたので、俺は県立高進学が絶対条件でした。
偏差値が上がったとはいえ、志望校を夏休みに見学に行った高校から一ランク上げました。そんな俺を見て塾の先生は言いました。

「今の○○君は勢いがあるから、○○高を受験したら?」

それは、兄と同じ進学校でした。確かに当時の俺には勢いがあった。偏差値を出す学力テストは、もはやゲーム感覚だった。どれだけ高い点数を取るのではなく、いかに間違いをしないかというスタンスだった。塾の立場としては、当然実績を上げたいわけであるから、少しでも上位を受験させようとするわけです。

「落ちて私立でも大丈夫だから」

母はそう言ってくれました。そして、俺は兄と同じ県立進学校を受験して、そのまま合格した。試験当日の出来は決して手ごたえ良くなかったのですが、発表時に受験番号があった時の衝撃は今でも忘れない。今の時代だったら携帯かデジカメで写真撮影しておきたいぐらいだった。

「あれ?俺の番号あるじゃん」

今、思えばこれが人生の第一のターニングポイントだったのでしょう。一度は消えかかった一流への道が、首の皮一枚で繋ぎ止めたのです。しかしながら、高校時代に第二の挫折がやってくるのですが、これは次回で語ることにしましょう。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

「伝説への道」 第六回「揺れる想い」

2005年10~11月のプロジェクト破綻の危機から、12月の「最期の戦い」を経て、私はある事をずっとずっと考えていました。それは、

「果たして、自分はここにいるべきなのか、それとも去るべきなのか」

言い換えると、

「自分はここに居たいのか、それとも去りたいのか」

になります。自分は、今まで何をしてきたのか?。それによって何を得られたのか?。これから、自分は何をしたいのか?。何が欲しいのか?。どういう自分になりたいのか?。
それらを自分に正直になって気持ちを整理する時期でもあったのです。

入社してある程度の経験を得てくると、良い面でも悪い面でも、いろいろな局面に遭遇します。組織の壁、他人の壁、そして自分自信の能力の壁。自分の思うようにいかない様々な抑止力が襲いかかってくるのです。本当は、それを一つ一つ取り除いて乗り越えていかなければならないのですが、このプロジェクトでは、その抑止力があまりにも多すぎたような気がします。まずは、その辺を整理する事から始めましょう。

まず、私の境遇に関する不満がありました。本当は、私だって自分の成果を上げるための作業に専念したいのです。その方が達成感もあり、自分のスキルが上がったという満足感もある。それに周りからの信頼と評価も上がります。それなのに、私は協力会社の相手・対応に多大な時間を費やしている。そして、自分の作業に失敗してバカの役目になり、白い目で見られプロジェクトの癌になる。馬鹿としか言いようがありません。

それは理想とは、かけ離れた現状でした。他のメンバーのスキルを上げれば、プロジェクト全体として効果はありますが、自分にとって何の利益にもなりません。自分はまだまだ人の上に立つには早過ぎた。もっともっと成長したいし、そのためにやるべき事があるはずなのです。それに、自分がやってきた事をよーく考えてみると、

「別に俺じゃなくても誰でもできるよな」

とも思えてきました。

「この仕事は俺にしかできない」

そういう領域があると、それが組織の中で存在感を示す有効な武器になります。自分は何の武器を持っているのだろうか?。考えてみると、自分はたいして武器を持っていないことに気付いたのです。あるのは、今までやってきたちょっとばっかりの経験ぐらいです。
他のメンバーにいろいろと教えているという立場と事実、それが果たして武器になるのでしょうか?。そんなものは、ちょっとばっかしの知識と経験があれば誰でもできることです。
周りには、私よりもよほど優秀で適任な人がいるはずなのに。

人は自分の存在価値を示す武器を得るために集中する。仕事を通じて、しかも武器を取得できれば、それはそれで一番効率がよいに決まっているが、残念ながら全ての仕事はそれに当てはまるわけではありません。武器取得と関わる仕事を妨げる作業は無駄ということになる。だから皆は嫌がる。成果主義が浸透したことによるデメリットの一つであろう。

悪い流れになっている事は誰しもが分かっている。でも、それを改善しようとしない。「まずい」と認識しつつも行動に移さない。そして、人任せにする。なぜなら、流れを変えるのは、多大なエネルギーを費やすからだ。自分の成果に結びつく保証も無い作業を誰が好んでやるだろうか。こうして、悪い流れは止まることなく負のスパイラルを描いていく。

上からは放置プレイ。なので、私は役職以上の責任と権限をいつの間にか掌握していた。危機感を持った私は、人を動かし、プロジェクトを動かすことに没頭した。自分が満足していない役割であっても、それが仕事だと無心に帰った。無心になれば失うものは何もありません。私は、喜びも悲しみも、そして愛を全て捨てました。人間を捨てました。氷のような冷たい心で、孤独な指導者になる決意をしました。傷つくのは、私一人で十分です。
でも、それでプロジェクトの状況が改善されるのであれば、会社からすれば安いものだろう。それが、会社の目的なのか。その気なら、私は喜んでその意気を受け入れよう。私ならその立場をこなすことができる。そして、もう一度、

「この仕事は俺にしかできない」

本来とは違う意味で、私は自分を動機付けました。合っているか分からないが、さも正しいように自信満々に偽りの指導者を演じてきた。私が言った通りに人間は動いた。白が正しくても、私が黒と言ったら黒になった。人を操るのが、こんなに心地よいとは思わなかった。そうやって、自分を更に動機付けていき、達成感を得ていった。達成感を増幅させることで、自分の大量の失敗をかき消していった。そして、失敗の量が達成感を上回った時、私は信頼を失った。そして、虚しさだけが残った。私の精神は壊れていった。

私が指導者的な役割になっているのは、「○○には、協力会社の相手をさせておけばよい」という思惑が見え隠れしてなりません。それは、私が高く評価されていない事を意味していたと思います。会社のためなら、上は何だってするでしょう。この時の心理状況は、かなり病んでいて疑心暗鬼に陥っていた可能性もあります。この時期は、本気で精神科に行こうと思った事もあります。でも、私は行かなかった。前に行った時にロクな対応してくれなかった経験があるから、無駄と思ったから。それに、医者にかかったという事実が知られたりしたら、自分に対する信頼はもう二度と取り戻せなくなるだろうと思ったからです。

自分に対する評価が高くないと判断した瞬間に、私のモチベーションは下がっていきました。十分な評価が得られないまま、自分が日の目を見ることができない組織に存在し続ける意味はありません。人生には限りがあります。私も人間なので、必要としている組織で活躍したいに決まっています。しかしながら、組織のせいにしても何も始まらないので、自責の意味に言い換えると、振り回されている→即ち仕事の進め方が下手→私自信が開発に向いている人材では無い→自分に適正と思われる組織へ移る、という流れになります。

以上の理由で、私はこのプロジェクトを去り、この部を去る決心をしたのです。ただの「逃げ」だと思われる方もいることでしょう。そう思われても仕方無いし、それだけの事をするわけなのですから。でも、自分が去ることが、組織にとっても、そして自分自身にとっても最善の結果になるだろうと判断したのです。自分が去ることが、一番の組織改善になるのは、組織のためにがんばってきた私からすれば、何とも皮肉な話ではありますが、冷静に振り返り、自分に正直に考えると、自ずと解は出てきたのです。

しかしながら、単にぽっと抜けるだけのことはしないつもりです。「逃げ」にならないように、私が抜けても開発が破綻しないで、組織が動けるような土台を作る対策を打たなければなりません。今の状態で、私が抜ければ、このプロジェクトが破綻するのは間違いないでしょう。自惚れかも知れませんが、自分はそれだけ組織に影響力を与えている人間だと自負していますし、それだけの事をしてきたと思っています。私が抜けられるような体制作りをしていく必要があります。

自分が満足しない組織に属している状況から脱却するには、「組織を変える」か「自分が組織から抜ける」の二通りがあります。後者のみを選んでも、すぐに抜けられる訳ではありませんし、抜けられるかどうかも分かりません。ですので、私は両方の手を打つ事にしました。かくして私の中で、「異動計画」が静かに、そして力強く火蓋が切って落とされたのです。

今回は、仕事環境面で「振り返り」をしましたが、次回は華観月A178自信の人生について「振り返り」を行います。人生面においても異動にたどり着いた何かがあることでしょう。その詳細は次回で語ることにしましょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

予告

第五回まで公開しましたが、物語の更新が停滞して申し訳ありません。次回と次々回はテーマが非常に重たくて、どうしても長い文章を執筆することになってしまい、時間がかかっています。

途中つなぎということではありませんが、今後の展開を予告しておきます。

第六回 「揺れる想い」

第七回 「人生振り返り」

第八回 「理想に向かって」

第九回 「???」

最終回 「???」

こんな感じかな。題名及び内容は、私の気分と都合により変更することもありますので、ご了承下さい。

それでは、次回以降をお楽しみに!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「伝説への道」 第五回「最期の戦い」

我々に与えられた猶予期間は1ヶ月。この期間中に、機能が全て入れるためにソフトの最適化を完了させなければなりません。また、この結果は客先に報告することが決まっており、不可能即ち開発の終了となります。プロジェクト存続のために、もはやぎりぎりで、もう後が無い状態です。

「最期の戦い」と位置付けたのは、これで失敗したら、本当に「最期」になってしまうという意味から名付けました。無事に成功すれば、最期にはならず、プロジェクトはめでたく存続することになります。当然のことながら、失敗は許される訳はありません。絶対に終わりにするわけにはいきません。

ここで終わってしまえば、ずっとずっと後ろめたさを引きずることになるだろう。莫大な利益損失のためボーナスに影響が出るのは必至でしょう。そうなると、このプロジェクトに関わっていない他の皆様までに多大なる迷惑をかけてしまうことになり、我々は末代までの笑い者となるでしょう。想像するだけでも耐えられません。職場の人間から信頼を失うことほど社会人として辛いことは無いからです。今まで考えた事すら無かった、依頼退職 or 自己都合退職までも、ちらちらと頭に思い浮かぶようになりました。

まずは、ホワイトボード上に日程を書き出します。そして、やるべき事を全て羅列します。その後、これを「いつ」「誰が」「いつまでに」を明確にしていきます。欲張らず、焦らず、問題点を一つ一つ分解して、そして一つ一つ確実に潰してゴールに向かっていくという地道な作業でした。

毎日、朝一からミーティングが開催されました。「今日は○○をやる」「その作業は誰がやる?」「昨日の○○の作業は予定通りか?」「誰がトリガーをかける?」疑問点を残してはいけません。打ち合わせをしないと、皆の認識がずれていきます。ずれたまま作業を進めると結果が大変な事になることは、想像できるでしょう。認識を合わせるスパンは短ければ短いほど良いのです。それも、あまり時間をかけずに簡潔に。作業の進捗状況の「見える化」がここで実践されたことになります。

最終到達目標のミッションが決まる、目標が定まれば、やるべき事が明確になる。明確になれば、それが「動機付け」になり、それに向かって走ることができるのだ。そして、1日or1週間という短い期間の目標に分解していけば、直近で何をやるべきかが「見えて」くるのだ。もちろん、そういう細かい目標も数時間後には方針が大きく転換することもありえるわけなので、1日単位の打ち合わせが効果があるということになる。周りを見渡せば、優秀な人間ばかりが集まっている集団である。良く考えれば誰でも分かることだ。でも、それができない。組織を構成しているのは、個々の人間だからである。だからこそ組織というものは難しいし、「プロジェクトマネジメント」という分野の学問が存在する。それは、物理や数学みたいな「普遍の事実」とは異なり、成熟した社会がもたらした課題が生み出した学問と言っていいだろう。

こうして我々の位相はぴったりと合い、予定通り作業を進めていくことができたのでした。人間と人間のベクトルの方向性が合うと、相乗効果が発揮されます。1+1=2では無く、3にも4にも、それ以上にもなるのです。これこそが人間が発揮する正の効果ではないでしょうか。私は、このプロジェクトに配属されて組織の悪い面ばかり見てきたが、まだまだ捨てたものではありません。やり方さえ間違わなければ、これだけの事ができるのです。この時、私は初めて組織の良い面を見た気がしました。想定通りにOutputが生まれ、効果が「見える」事はやっていて気持ち良いものです。そのイメージを頭に植え付けることで、成功への「動機付け」にすることができ、再び頑張ることができる。正のスパイラルが誕生した瞬間である。これも仕事の醍醐味と言えるだろう。

そして期限までに、最適化を完了させた我々は、胸を張って客先に報告することができたのであった。結果論になってしまうが、私は不思議と「できない」とは思わなかった。何でそんな根拠の無い自信があったのかは、今振り返っても分からない。おそらく、失敗するという負のイメージを完全に頭から消去したのと、私が持っていた最適化の改善策の効果が大きいだろうという勝手な正のイメージで頭を埋め尽くしたことで、「成功」への動機付けとすることができたのだと思う。

時は2005年12月。ミッションを達成した我々は、ささやかながら祝賀会を開催した。主催者は私である。普段は、飲み会をあまり好まない私が、こうして企画をするのは自分でも不思議だと思っている。でも、この時ばかりは、この喜びと苦労を皆で分かち合いたいという思いから出たのであった。このプロジェクトを通して、私自信の考えは確実に変わったと、この時実感した。主体性を発揮して皆に影響を与えている自分がいた。それは「7つの習慣」の第一の習慣である「主体性を発揮する」を無意識にうちに実行したことによる効果であると言えるだろう。

こうして枕を高くして無事に2006年を迎えることになったのであるが、この時、既に華観月A178は、ある事を決意していたのであった。その内容は、もう少し後になれば分かるでしょう。

本物語の前半まで終了です。あと半分あります。長いストーリーですいませんが、今後ともご愛読よろしくお願いいたします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)